「このコロナ禍で学び合いをするのが難しい。」と言う相談。確かに対面での対話やグループ学習が制限されている中では出来ないことも多い。
質問を受けて改めて学び合うと言う事はどういうことなのか考えている。今、僕も同様にグループ活動や子供たちの共同性を取り入れた授業はしていない。全員が前を向いて一斉に授業を進めている。その中で気がついたことは、「学びは関わりの中にあること」「子どもたちは関わりながら学んでいること」そんな事は既に分かりきったこと何だけど、制限された中だからこそはっきりと自覚する。
例えば、朝のサークル対話の代わりに、タブレットPCを使ってコミュニケーションをとっているんだけど、操作に迷うとやっぱり友達に聞きにいく。本末転倒なんだけど、そりゃそうだよなってなる。
他にも、本当に小さな部分にも感じていて、本当に静かな、動きのない授業の中でも、友達の発言や動き、もっというと仕草や息遣いまで影響されながら学んでいるんだなぁというのが伝わってくる。だから、対話しなくても黙ってノート見に行くだけでも、出来上がった作品が黒板に掲示されるだけでも「学び合い」はおきている。
こないだ読んだ本の中に“共在感覚”という言葉があった。共在感覚は、一緒に居るって感覚なんだけど、それは何も対話をしたり、顔を合わせなくても感じる事ができる。リモートならまだしも同じ教室にいるのだから、その場の空気や感覚を大切にしながら学びを作っていくことができないだろうか?
今回のことで逆に学びあうことの意味や関わりあうことの意味が見えてきたように思っている。これまでグループワークや対話“させる”ことでぼやかしていた部分が見えてきた。わかったふりをしていたことが見えてきたと思う。“関わる”ということは自ずと起きていること。学びの形態が良くも悪くもさようすること、つまり、グループワークをすればいいってわけじゃないということ。他にもまだ言葉にしきれていないのだけどこれまで目に入らなかった小さく些細な部分に意識がいくようになった。
もちろん、だから授業は一律一斉でいいってことではない。あと、「学び合いは学んでいる感じだけだよねー」とか「グループワークないと45分もたないよねー」とかそういうことではない。
どんな状況でも、どんな方法でも、子どもたちの姿から学びを立ち止まって考えていこうってこと。
そうやって考えていくと、冒頭の質問の答えはどうなるんだろう?大切なのは学び方なのではないということ。子供たちはどのような状況であれ関わりや友達の存在に影響されながら学んでいる。つまり、今大事にしたい事は、できなくなった学び合いと同じ“もの”を再現するのではない。学び合うことを諦めることでもない。今の状況を踏まえて、子どもたちが自ずから関わり、学んでいく手立てを試行錯誤していくしかない。ってことかな?
結局、悩み続けるしかないのか。でも、「子どもたち1人1人の姿から学び、対話しながら進んでいく」ただそれだけなんだよなぁといつもここに行きついてしまう。
投稿者プロフィール
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ボクは、トイトイ。
ごくふつうの町のごくふつうの学校でせんせいをしている。
「せんせい」と呼ばれるのは少しくすぐったくて、
子どもたちからは「トイトイ」って呼んでもらっている。
ここで話すのは、ボクが子どもたちと一緒に見聞きしたこと。 学んだこと。考えたこと。
そんな何気ない日常のひとかけら。
ごくふつうの日々だけど特別で大切な言葉で綴られた物語。
【とし】「お兄さん」から「おじさん」と呼ばれるようになってきたぐらいの年。
【すき】あるく。ラムネ。本。料理。
【きらい】すぅーっとするもの。
【学ぶ】ことば。てつがく。
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