子どもたちが間違いや失敗をした時。以前なら、間違いそれ自体に関心を向けていた。それが最近ふと。そこでの「想い」や「思考」に関心を向けるようになってきた。
例えば、学校でよくある風景。「廊下を走った」とか「宿題忘れた」といった小さなことから、物を壊したや友達をバイキン扱いした。みたいな大人の感情が大きく揺らぐようなことまで。
声を荒げて怒るようなことはせず、「その時どう思っていたの?」とか「何を考えた?」なんていうように問いかけているボクがいる。
もちろん子どもたちは、「怒られる」「怖い」と身を縮めているわけだから、なかなか言葉が出てこない。
でも、「あなたを責めたり、罰したりしたいんじゃないよ。その時の気持ち、知りたいんだよね」と素直に伝える。
とつとつと語る子どもたちの言葉を聞いていると、そこに葛藤があったり、後悔があったり、その瞬間、実は言葉にならなかったコトバがある事が見えてくる。そうして一緒に振り返ってみると、今だから考えられること意味付けられることがたくさん見えてくる。
ついこないだも、友達をバイキン扱いする事があった。話していると子どもたちの口から出てくるのは「ごめんなさい」や色んな建前。それでも問いを重ねていくと次第に自分の気持ちにフォーカスするようになっていきます。
「ダメだと思ったんだけど、何か怖くなっちゃって」
「えっ?怖くなったって?」
「相手を避けようって思った自分が」
「へぇ」
「自分がやな奴だなって。でも、やっちゃって、それが気持ち悪くて…」
と言った感じ。何だか哲学している感覚。
「そっかそっか、いっぱい考えたんだね。その気持ち大切にしなさいねって。また同じ事があっても今言葉にした事が楔になるよ」って。伝える。
結局。自分の気持ちや言葉。つまり、自分の内に目を向けられるかなのだなと思う。怒られた、叱られた、褒められた、、、これも大切な物だけど、最後は自分が自分にかける言葉が一番の成長、変化につながるんじゃないか?
そんなことを考えた。
もちろん、大人も一緒。子どもたちとやりとりしながら、自分の未熟さや弱さを痛感している。
投稿者プロフィール
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ボクは、トイトイ。
ごくふつうの町のごくふつうの学校でせんせいをしている。
「せんせい」と呼ばれるのは少しくすぐったくて、
子どもたちからは「トイトイ」って呼んでもらっている。
ここで話すのは、ボクが子どもたちと一緒に見聞きしたこと。 学んだこと。考えたこと。
そんな何気ない日常のひとかけら。
ごくふつうの日々だけど特別で大切な言葉で綴られた物語。
【とし】「お兄さん」から「おじさん」と呼ばれるようになってきたぐらいの年。
【すき】あるく。ラムネ。本。料理。
【きらい】すぅーっとするもの。
【学ぶ】ことば。てつがく。
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